佐々木朗希 震災で亡くした父を語る 父と9年越しの予言がこちら!

プロ野球
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東日本大震災から9年がたった2020年3月11日、プロ野球「ロッテ」にドラフト1位で入団した大船渡高校の佐々木朗希投手が亡き父について語り反響を呼んでいます。

この記事では、当時9歳だった佐々木朗希投手が震災で亡くした父について、当時父親が予言していたという言葉と共に紹介します。

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佐々木朗希 震災で亡くした父を語る

2020年3月11日で、東日本大震災から丸9年を向かることとなります。

そんな中、ロッテにドラフト1位で入団した大船渡高校の佐々木朗希投手が故郷である岩手県陸前高田市と、震災で亡くなった父について語ることとなっています。

佐々木朗希投手が亡き父について語った内容について報道では以下のように記されています。

「悲しい。悔しい。何で-。「3・11」には、人それぞれに感情がある。9年の歳月を経た今、佐々木朗希はどんな思いを抱いているのだろうか。「そうですね…」としばらく視線を虚空にさまよわせてから、とても落ち着いた声で話した。朗希 悲しいことではあったんですけれど、すごく今に生きているなと。当たり前が当たり前じゃないとか、今あるものがいつまでもあるわけじゃないとか、そういうのを思い知らされました。そう思えるまで、どれほどの時間がかかったことだろう。大津波は、朗希少年から多くを奪った。父、祖父母、仲良く過ごした家や街。大人であっても、簡単に気持ちを切り替えられる出来事ではない。それでも「今あるものがいつまでもあるわけじゃない」と後悔しないよう、一生懸命生きてきた。学生時代は、毎朝のように遺影に向き合ってきた。大人の社会の仲間入りをしたからこそ、感じる偉大さに深みが出る。亡き父について、初めて口を開いた。今度は「なんか、僕が言うのもあれですけど」と気恥ずかしそうに前置きしてから、少し胸を張った。朗希 誰とでもすごく仲良くしていて、みんなに愛されていたのかなぁ、と思います。佐々木功太さん。もともと、陸前高田では知られた人だった。元気な3児の優しい父として。人生の節目に寄り添う仕事をする、人情あふれる働き者として。夏祭りでは町内会を率先して盛り上げる、太陽のような存在として。163キロ右腕のことを「あの功太の、3人息子の真ん中の子」と認知する人も多い。若きリーダー、功太さんに多くの人がほれた。壊滅的被害からの復興に尽力してきた戸羽太・陸前高田市長(55)も、付き合いが長かった1人だ。「有言実行の人。一緒にやろうという仲間作りが上手な人でした」と、未来を語り合った日々を懐かしむ。「気さくで、行動力があって。先輩も後輩も、みんなが付いていって」と褒める言葉が尽きない。」

引用:「日刊スポーツ」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200311-23100642-nksports-base

 

佐々木朗希 震災 父と9年越しの予言がこちら!

東日本大震災から9年がたった今、亡き父について語った佐々木朗希投手ですが、父・功太さんをよく知るという岩手県陸前高田市の市長・戸羽市長は功太さんが当時ある予言をしていたと語っています。

ここからは、戸羽市長が語った佐々木朗希投手の父・功太さんの予言と共に、功太さんについて戸羽市長との関係と共に紹介します。

佐々木朗希 震災 的中した父親の予言がこちら!

岩手県陸前高田市の市長である戸羽市長は、佐々木朗希投手の父親である功太さんのことをよく知っているといいます。

9年前の当時も、戸羽市長はある日功太さんの元を訪れたといいますが、その日のことは非常に強く覚えているといいます。

戸羽市長が功太さんの元を訪れると、佐々木朗希投手親子は兄弟たちと共にキャッチボールをしていたといいます。

佐々木朗希投手親子がキャッチボールや野球をする光景は日常的なことであったといいますが、戸羽市長が印象に残っているというのは、父・功太さんが当時9歳の佐々木朗希投手に対して真剣にボールを投げていた姿であるといいます。

その姿は思わず止めに入ってしまう程の本気の様子であったといいますが、戸羽市長は近くにいた佐々木朗希投手の祖母に「いいんだ」とたしなめられたといいます。

それもそのはず、なんでも佐々木朗希投手は当時から近所でも有名なほどの野球の腕前であったといい、その日も功太さんが本気で投げたボールをしっかりととって投げ返していたといいます。

これには父・功太さんも「朗希はすごい選手になる」と予言していたといいますが、その通りに育ちロッテにドラフト一位で入団した佐々木朗希投手。

そんな佐々木朗希投手が、ロッテ一軍の石垣春季キャンプでついにブルペン入りした映像がありますので紹介します。

父親の予言を現実のものとした佐々木朗希投手に対して戸羽市長は、「(被災地の)子供たちの希望になる。頑張れば夢がかなうことを見事に証明してくれた。」と称し、佐々木朗希投手を「希望の星」と表現しています。

 

佐々木朗希 震災 父はどんな人だったのか?

ここで気になるのは、歴史的な投手となっている佐々木朗希投手の生みの親であり、さらに岩手県陸前高田市の市長である戸羽市長ともかかわりが深かったという功太さんはどのような人物であったのかということではないでしょうか。

ここからは、佐々木朗希投手の父・功太さんについて、戸羽市長との関係と共に紹介します。

佐々木朗希投手の父・功太さん(享年37)は、陸前高田市では非常に有名な存在で、近所ではリーダー的な存在であったといいます。

それは、163キロ右腕として知れ渡った佐々木朗希投手のことを陸前高田市では「あの功太さんの3人目の子」と認知されるほどであったといいます。

そんな功太さんはお仕事は何をされていたのでしょうか。

なんでも功太さんは葬儀屋にお勤めであったといいます。

葬儀屋で働いていたことで、戸羽市長と関係が深かったことも頷けますね。

功太さんと付き合いが長かった人物の一人である戸羽市長は、功太さんについて「有言実行で仲間づくりが上手だった。気さくで行動力があり、みんながついていく」と語ることとなっています。

 

佐々木朗希 震災 世間の反響

東日本大震災から9年がたった今、佐々木朗希投手が亡き父について語ったことで、世間では非常に大きな反響が寄せられることとなっています。

その中でも、

「9歳で父を亡くしてこんなに立派な選手に育ったのは、それまでのお父さん、その後のお母さんの指導や育て方が立派だったのでしょう。ロッテファンではないけど、プロでも大活躍することを願っています。ダルビッシュクラスの大物ピッチャーになるのではないでしょうか。」

「辛い経験を代表今があるのですね。お父さんの予言と夢を叶える活躍を応援しています。プロ野球を代表する大投手となることを応援しています。」

「甲子園行出る事も夢だけどこれからの野球人生。東北全国世界のスーパースターになる事間違いなし、これ程の選手見れるとは野球会も盛り上がっていく、WBC楽しみ!」

「素材は超一級品かと思います。ロッテには是非、育成をしっかりして球界を代表する投手にしてもらいたいです。地元にも希望を与えられる選手だと思う。他球団ファンだけど応援してます。」

「良いお父さんだったんでしょうね。。陸前高田で生まれ、3.11という大災害を経験し、父親を亡くし、、、そしてこんなにも可能性のある選手に育ちプロ入り、どう考えても漫画の主人公。困難があると思うけど本当に頑張って欲しい!」

「投げやりな意味ではないが、お父様への誇りを大切にしつつ、背負う必要のないものは背負わずに佐々木選手らしく活躍してほしい。」

「キャンプ中からとても優しい子だなと思ってた。走り寄ってきた子供にも笑顔でサインしたり、この前の登校できない子へのメッセージや昨日の動画もそう。震災の過酷な状況を経験して、人に尽くそうという心が自然と生まれたと思いました。」

「大活躍してほしいです。陸前高田のみならずすでに被災地域の新たな希望の星となっているので怪我のないよう頑張ってほしいです」

などなど、様々な声が数多く寄せられることとなっています。

 

佐々木朗希 震災 おわりに

この記事では、佐々木朗希投手が震災から9年越しに語った父親への想いと共に、父・功太さんにについて紹介しました。

頑張れば夢がかなうことを証明し、岩手の希望の星となっている佐々木朗希投手。

熱い父のDNAと共に、さらに岩手を盛り上げる投手として活躍してくれることに期待が高まります。

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